"Roots of my photography"
21歳、イタリア、ベニスのカーニバルの写真で日本カメラ誌で特集される。制作会社勤務の後フォトグラファーアシスタントを経て、世界放浪。ヨーロッパ、ジャマイカ、アジアを旅した写真を元に旅行雑誌、音楽雑誌の仕事を始める。
1990年 26歳 ROPPONGI DAYS 1991.1992
26歳の時、コミックの表紙の仕事を切っ掛けに、六本木で外人カップルをスカウトするようになる。時代は湾岸戦争。イラクから帰ってきた兵隊で六本木は溢れかえっていた。ファッションモデルや、帰還兵の作品で、1992年パルコプロミッシングフォトグラファーズの選出される。この受賞で大きく仕事が増えていった。
1991年 27歳 IN NATURAL
音楽雑誌を作っていた編集者、牛久龍巳氏から新しい雑誌の表紙巻頭を依頼される。ほとんどがモノクロで毎回24ページから40ページの撮影を依頼された。それが後に渋谷系といわれるサブカルチャーを生み出したひとつの雑誌、IN NATURALだった。永瀬正敏さん、本木雅弘さん、浅野忠信さん、福山雅治さん、松たか子さん、中谷美紀さん、梨花さんなどがカバーを飾り、以後4年間表紙巻頭を担当する。
1992年 28歳 トーキョーポートフォリオ
新潮社が、フォトミュゼという写真文庫を立ち上げることになり、東京のドキュメント撮り下ろしの依頼を受ける。その頃、阪神大震災、地下鉄サリン事件があり、街にドキュメンタリーを撮る雰囲気はなかったが友人の日本人モデルたちのひと夏を撮ることで完成する。当時NYで活躍していた小田まゆみが表紙。
1993年 29歳 TOKYO MODELS
トーキョーポートフォリオを作った時、ファッション業界では日本人モデルブームが始まっていた。 IN NATURAL誌で連載していた、TOKYO COLLABORATIONをまとめたのが、この写真集になった。
1994年 30歳 AMISH NATURALLY
この頃、よくファッション雑誌の撮影でNYに行っていた。そこで聞いたのが、電気のない19世紀のそのままの生活をしているというアーミッシュという人々の存在。自然な彼らのライフスタイル、装飾のない服装は僕の興味を捉えた。アーミッシュとは写真に撮られると魂が抜かれると信じている人々。この時はペンシルベニアに一ヶ月滞在し、彼らの自然なポートレートを撮ることができた。あれから何度もペンシルベニアに足を運んだが一枚のポートレートも撮れていない。不思議な体験だった。雑誌DUNEに掲載。
1996年 Santa fe dream
雑誌、ZOLAでジョージアオキーフをテーマにサンタフェに向かう事になった。僕を虜にしたのは、ネイティブアメリカンの家族たち、自然とともに生活するライフスタイルとファッションは当時の僕にはすごく眩しく思えた。その後、新婚旅行などで、何度もサンタフェへ出向くことになる。毎回、お世話になった家族に会いに行くことを楽しみにしている。
1999年 IRELAND TELEGRAM
この時期になって自分の中に、“愛”とはなんだろう”と疑問がよぎる。
”LOVE&HATE”愛と憎しみ。日本においては憎しみという感情は表面に出て来ない。僕は、1998年4月10日ベルファスト合意を受けて、北アイルランドのベルファストに向かった。U2の歌、Sanday bloody sanday そこで何が行われているのか確かめたかった。平和協定中もテロの勢いは続いていた。IRAとUVFの争い。なぜ罪のない市民同士が争わなければいけないのだろうか。犠牲になるのはいつも子供たち。日本に帰り、日本にも同じような感情があることに気がつく。それは無関心という感情であった。学校ではいじめの事件が多発していた。この撮影が僕に清らかな理想像としてのスクールガールを撮るひとつの切っ掛けになっていく。IN NATURAL誌に掲載。2004年”ONE LOVE”として、ブリッツギャラリーで写真展を開催。
2000年 days of heaven
虹の尻尾を見たことはあるだろうか。虹が地面が設置しているあたり、そこに行ったらどんな視界が待っているのだろうか。虹を追いかけてサトウキビ畑に入っていくと、虹が僕をまたいできた。大粒の雨が僕に降り注ぎ、その雨は光を受けて、光の玉として降ってきた。いつも雑誌の撮影には、メインカメラのPENTAX67とは別に、ローライフレックスの2眼レフを持ち歩いていた。ハワイでの不思議な体験を元にポートフォリオを作った。2003年にアートフォトサイトブリッツギャラリーで写真展を開催。
2003年 NEWYORK DAYS
9.11の次の年、僕はその後2年に渡るNYを往復する生活をしていた。幼い頃の夢はNYでファッション写真家として活躍することだった。夢を叶えたいというよりも、テロの後、90年代によく行った自分の愛したニューヨークを残しておきたいと思った。日本の仕事をこなしながら、NYで作品撮り、売り込みを繰り返す日々だった。その時にNYのアートディレクターにいわれた言葉が心に刺さる。NYと同じに日本もテロに会うかもしれないでしょ?あなたはもう日本で撮り残したものはないの?”撮り残したもの、それは自分の原点である”青春時代”であったのかもしれない。
2004年 青春トーキョースクールガール
日本に帰ってきて取り掛かったのは制服を着た少女のポートレートだった。北アイルランドで見た悲しみ、NYでみた自分の原点を組み合わせて作品にしていった。この時、スタジオに入る自然光で撮っていたので色がどうしても統一できなかった。ポラロイドの色からヒントを得て、スカイブルーに被った色味でプリントした。作品集にしようと出版社を回ったが、当時は青い写真は死体を連想するというのでほとんどの出版社で取り合ってもらえなかった。この作品以降、青春や制服のイメージで青い色に傾いた写真の流行を生んだ。2004年ブックマン社にて、写真集として出版される。2005年アートフォトサイトブリッツギャラリーにて個展を開催。
2008年 innocent youth
スクールガールの写真集は、日本でも続編が発売されるようになった。その頃海外でも、スクールガールブームは起きていた。NYの大手エージェンシーART+COMMERCEからその年の優秀写真家を選ぶ祭典PEEK2007”で日本人で唯一選出された。NYで一度は諦めた夢がひとつ、日本で叶った気がした。
2009年 koivu
家具メーカー,Momo naturalのカタログ、広告で、フィンランドに行く。デザイナーであるニカリ氏とミュージシャンのジョンマクレガーさんの取材だった。森と湖に囲まれた、フィンランドの田舎の風景はネイティブアメリカンやアーミッシュ、ハワイの生活とも共通する自然と共存するライフスタイルだった。その中でも僕のお気に入りは白樺の樹”koive”だった。僕は白樺の樹の写真を多く撮った。樹の下に寝そべると光と戯れた葉が風に揺れる。下から写真機をかまえると樹が話しかけてくれるような気がした。
2010年 ナチュラリーズ
フィンランドのカラープリントと、自分の子供の誕生、自然信仰アミニズムの作品をまとめてナチュラリーズというタイトルでアートフォトサイトブリッツギャラリーにて写真展を行った。
2011年 震災ボランティア 笑顔の秘密
僕は笑顔が苦手だった。日本ではどこでも笑顔がもてはやされる。日本に来た外国人は日本人はどんなときでも笑顔で、不気味な時もあると聞いた事がある。NYに行ったとき、笑顔がいっぱいの僕の作品に”君は何をやりたいんだ?”と訪ねられる事も多かった。 NYでは原則,広告は笑顔,アートやファッションは無表情的と、使い分けをされていた。東京に帰って来てから僕はあまり笑顔の写真は撮らなくなった。アート性の高い写真を目指す僕には、笑顔と言うより,モナリザのような永遠の微笑を撮る方向にスイッチしていた。
2011年、震災のボランティアで、ある街の小学校の生徒全員を撮影させていただいた。子供達に今の現状を理解させるためのセラピー。授業の一環としてスクラップブックの制作を行いたいと言う事だった。僕は迷わず賛同させていただいた。
小学校に到着するなり,校長先生が出迎えてくれた。そして言った”今回はこどもたちの満面の笑顔を撮ってください”未曾有の大災害で、こどもたちの表情から笑顔があまり見られなくなっていた。僕は教室に向かう途中で、こみあげる涙、感情を抑える事が出来なかった。
笑顔とは、生命の力が噴出した表情ではないだろうか。無理矢理に作る笑顔では意味がない、本物の笑顔は見る人の心を癒し,勇気をくれる。こどもたちが教えてくれた“笑顔の秘密”とは、どんな困難があってもくじけない、“無限のパワー”と言う事だったと思うのだ。
2011年 AKBがいっぱい
スクールガールを撮り続けてきた僕にとって、思い出深い仕事になったのが2011年の広告 “AKBがいっぱい DVD BOX セット"だった。スクールガールのブルーの作風が理解されはじめたのはこの頃だったと思う。AKBが秋葉原から渋谷に進出し、全国区となった象徴的な広告を担当させていただいた。109のシリンダー広告は、2週間日替わりでメンバーが登場したことも大きな話題になった。渋谷の街全体約が一ヶ月もの間、AKB48、スクールガールブルー一色に染まった。撮影が東北大震災の直後で、スタッフで黙祷しながら撮影を続けたのを覚えている。偉大なアーティストのブレイクの瞬間、震災で落ち込んでいた景気の回復につながる幸せな仕事に携わらせていただきました。
撮影 金指 翔子
2012年 スクールガールジャパン
2011年3月11日、東日本大震災が起こった。スクールガールズシリーズの誕生から10年がたち、チャリティーで現地に向かったのが切っ掛けで写真を撮るようになった。僕はどうしても被災現場ににレンズを向けることができなかった。でも被災地で頑張る“青春”は撮ることができる。東北で撮影したスクールガールを中心にスクールガールジャパンとして2012年PENTAXフォーラム新宿にて写真展を開催。延べの入場者4300人の方に来場していただきました。チャリティーのプリントを制作し、“東北に光を”宮城県あしなが基金を、通じて震災で親を亡くした子供たちに義援金を寄付することができました。
2013年 東京シャッターガール
桐木憲一さん原作のコミック“東京シャッターガール”と出会う。ショートムービーの中の一編“写真って何”編で映画監督コバヤシモトユキとして作品を制作しました。若い頃に夢見た映画監督という職業。今後も写真に関する映画を発表していきたいと思っています。